悲しい現実を受け止め、それで葛藤する人々。
何も起こらないとわかっているのだけれども、
安心できずに、日々の環境に我慢する人たち。
愛をもって接していても、枯渇した器には、
穴が開いており、なかなか埋める事ができない。
何かが消えてしまったと思っていても、
それが、何かの始まりとなって生きていく。
こんなサイクルに押し込められてしまうのだから、
生きる意味を問わずに、息の根を自ら切ってしまう人々もいる。
人の為と書いて「偽」というけれども、
生きていくうちに、愛を与えていくうちに、人は強くなり、
「偽」が消えていくのだと私は信じている。
喜んで、悲しんで、楽しく生きている。
確かに、育った環境によって、周囲が気持ち悪いと感じる事もあろう。
ただ、その当事者にとっては生きている意味というのは、
自分自身が一番わかっているに違いない。
生きている事、それがどんなにもつらくても、
自分自身にしかわからないことは多い。
母子家庭がなんだというのか。父子家庭がなんだというのか。
私自身、小学2年生の時に父親に刺され、母子家庭の道に行く事になってしまった。
一人っ子はいいよね。とよく言われるけれども、
母子家庭の一人っ子はわけが違う。
なにもできない自分自身への苛立ちがずっとずっと心の中で
わんさかわんさか出てくるのだ。
精神科医はいう。
「人は同じ事を繰り返す生き物だと」
じゃ、病気になったり心に傷ついてしまった人たちとは、
どうなるというのだろうか。
ずっとその子どもも同じ病気を歩むということなのか。
どこのだれかの精神科医が言ったからといって、
それを鵜呑みにしてほしくない。
子どもたちよ。大人たちよ。
全ての人たちよ。
生きているだけでなんぼだと思う。
生きる事だけで幸せなんだ。
「有難い」は有る事がなかなか難しいと書く。
その反対語は、なにかしっている?
それは、
「あたりまえ」
生きててあたりまえなの?
勉強できてあたりまえなの?
そんなことできてあたりまえじゃない?
と、あたりまえという言葉は私にとって苦手な言葉だ。
些細な事でも「ありがとう」と言える人間になりたい。
そう言える「人」を育てていきたい。
家庭教師・本田裕之
関連記事はコチラ
- FAXの送り方 – 2019年7月11日
コメント