4歳から小学2年生まで、岡山・倉敷に住んでいました。
本田裕之です。(旧姓:木村)
数年前に岡山へ旅で行った事があるのですが、
その時は、平津児童館は、廃墟化していた様子でしたので、
とても悲しく思っていました。
今日、おもむろに「平津児童館」を調べてみると、
復活していたのに、嬉しく驚いています!
1986年頃から平津児童館に毎日のように通っていました。
自宅に帰る事、居る事が、できなかった時です。
よく児童館の屋根の上に、ドッジボールを投げて、落ちてくるボールをキャッチして遊んでました。
砂場で、一人で黙々と数時間遊んでいた事が多々ありましたが。
後は、竹やぶに入って遊んだり、桃狩りに行ったり、
山へ遠足に行ったりしました。(あの当時、まだ桃ケ丘小学校が新設された頃でした。)
一番怖かったのが「雷」ですね。
瀬戸内海の気候だからでしょう。
雨が全く降らずに、「雷」がピカピカ光って、落ちる。
避雷針って、あの当時なかったような気がしますが。
大きな木が、バリバリと割れてビビった事がありましたね。
栗がいっぱい落ちている神社のところです。
歳が違う子たちが多く、それぞれの子の事情は少し耳にしていました。
私もその一人ですが。
児童館で遊んだ後は、友達の家で夕ご飯をご馳走になる事が多々ありました。
その当時、自宅に帰りたくなかった理由がありましたからね。
夜空は星でいっぱい。じっと見ていたら、いつの間にか寝ていて。。
朝を迎えて、平津小学校へ登校してました。
その当時、児童館で一番思い出深いのが、「オルガン」です。
大部屋に「オルガン」があって、いつもなにか奏でていました。
足を上下に動かしながら、両手でオルガンを。
一人で没頭していた時間でした。
後は、牛乳パックで三次元ブロックをたくさん作って、「この形できるかな?」というプリントを観ながら、
作成していたのを覚えています。
百何通りあったのですが、1年間ぐらいかけて、全て「合格」しました♪
お陰様で、今は立体を頭の中でイメージする事が、簡単にできるようになっています。
これも、一人で没頭していましたね。
「サッカー」や「野球」、「卓球」はダメでした。
球技はどうもダメみたいです。
それで、「水泳」をはじめるきっかけになったのも、平津児童館があったお蔭です。
あの少年時代に平津児童館に通えた事、感謝しています。
2018/2/3 本田裕之
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